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私の履歴書

今から約20年以上前、



私(高良)が18歳のころ、親戚の叔父の経営する建築業のアルバイトがこの業界のはじまりでした。

当初叔父は新宿や池袋などの店舗を改装する仕事を一手に引き受けており私は大工の手元としてアルバイトに行っておりました。仕事の内容ですが主に材料の荷揚げと現場の掃除でした。
とにかく職人さんが工事をしているそばから道具を片しながら掃除をする毎日でした。



その後縁あって水道配管工事を行う会社でのアルバイトで埼玉の川越の方に行きました。
私の任務はコンクリートの解体工事と穴掘りがメインでした。
小学校が夏休みの時に校舎の庭で日差しを浴びながらスコップで配管の穴を掘っていたのを思い出します。
その後徐々に鉄管のネジを切る作業や配管ができるようになりました。

親方の知り合いで電気屋さんがいて忙しい時期には昼は水道工事・夜は電気工事と掛け持ちの日々を送っていました。
当時私はやりたい仕事があり、そのためにすべてアルバイトで生計を立てていました。
自分の仕事が入った時にはしばらく休まなくてはならないため、戻ってくるときに「いいよ。」といってもらうため、普段から一生懸命働いていたのでした。

夏の暑い中、汗でびっしょりになりながら穴を掘り、冬は寒い外部で防寒ジャンパーを着て冷たい配管作業を行なっていました。
現場では工事の全体を仕切る監督さんと設計士さんが打ち合わせをしていました。
資格とキャリアを持つこの人たちは、からだを動かして稼ぐ私のような労働者からすると、全く別の世界で生きる憧れの人達でした。

その後、3年ほどして縁あって何でも出来る器用なひとり親方についたことがありました。

普通大工は大工工事だけ。水道は水道工事だけ。といった具合にそれぞれ専門分野として確立しているのですが、その親方は依頼が何でもあるせいでしょうか、それこそ家一件建てるまでの工事をやりました。

工事の内容ですが、瓦屋根の部分交換から雨漏りの補修、スレート屋根の改修及び下地野地板の張替え、アンテナの新規取付新規配線、神社の樋改修工事、コロニアル屋根塗装及び外壁塗装・ベランダウレタン2液式防水工事、木製窓をサッシ窓に交換、4畳半の増築工事、駐車場をアスファルト・コンクリートにする工事、壊れたアルミ門扉の新規交換工事、表札の取付、通話式をTVインターホンに交換、渋谷ロフト従業員ロッカー全員の錠前シリンダー交換工事、天井・壁クロス張替え工事、京壁塗り替え工事、和室を床フローリングに改修、建具の調整交換工事、便器・キッチン・洗面の交換・部品交換工事などなど。

書いても書ききれませんが、ほんとに何でもやりました。それもホームセンターで買ってくる材料ではなく、本職が使う材料で行うため、手順から道具までも専用の物を使っていました。

この時の経験が現在の私の仕事の役に立っていることは言うまでもありません。
なにせ普通は偏ってしまう知識がこの時にかなり広がったのです。

それから数年がたち、それまでの経験を生かして、工事の見積もり、積算、管理をするという仕事につきました。
本当は臨んだ訳ではなく、たまたま今までのような職人として働こうと思っていたのですが、そこまで色々経験しているのなら監督をやれ、ということで昔憧れた監督職をやることになりました。

とは言っても、建築の学校を出ているわけではありませんので、図面の書き方から工程表の管理まで当時の1級建築士の社長に教わるのでしたが、ま~毎日が文句を言われながらの日々でありました。

在来工法の浴室の図面を書け、と言われて書き始めましたが、0.4のシャープペンシルでの線の引き方がわからず、前にいた女性社員に「回しながら書くんです。」と小さな声で教わったのでした・・・。

なんとか書き終わると、「この場所がダメ!」といってもう一度書き直し、また書き終わると、「収まりがダメ!」と言ってまた書き直し、これが毎日、毎日続きました。

書いているそばで、社長が来店したメーカー営業に向かって「金払って教えてやってるんだからたまんねいね。」と嫌味をいっているのが聞こえました。それはそれは悔しくて、入ってからの初めての休みの日、新宿の世界堂で設計用具のムトーの製図板を買ってきて、自宅で社長が書いた図面を移すトレース練習をコツコツと始めたのでした。

この時期の「5ミリの寸法まで考えて図面を引け!」といった教えは現在に生きています。

具体的な設計図があって、材料の計算が出来、労働の予算も出せて、何よりイメージが伝えやすいといったことは、今までの経験ではなかったことでした。
新築・増改築が得意だった会社の母体が工務店だったので、各職方さんたちからも、この場合はこうしたほうが分かりやすいといったアドバイスもたくさん頂いたのでした。

このように経験と実力ではキャリアを重ねてきた私でしたが、建築関係の学校を出ていない私は資格は何も持っていませんでした。

「どうせここまで来たのだからやるしかない!」と独学建築士取得にチャレンジすることにしたのでした。

「独学」とは聞こえはいいのですが、実は予備校などに行くお金がなかったのです。

建築士は学科・製図と別れており、予備校に行くとそれぞれで60万ほどかかるのです。
それも一年間ですから、もしも落ちることがあれば、またいちからお金を出して学校にいくことになります。

最初、まず何から始めたらよいのか分からなかったので新聞広告に出ていた「通信教育」でやってみましたが、全く意味がわからず挫折。
運良く、この時にいた会社はリフォームのフランチャイズに加盟していたので、私の独学チャレンジをきいた他店の仲間の人たちから、皆さんが以前通っていた予備校の参考書などをたくさん頂いたのでした。

これは本当にありがたかったです。

この頃が私が人生で一番勉強した時間でした。高校の入試よりもです。やっている人には当たり前でしょうが何せ「からだ」で生きてきたので勉強はそっちのけでした。

毎朝学科の問題を解いて、仕事から帰ってからもひたすら過去の問題を解いて、内容を覚える位に繰り返しました。なんとか学科は受かりましたが、製図が大変でした。

製図は実際に書くので参考書で学べるのはテクニックだけです。
限られた時間の中で、課題の内容を実際のプランに反映したものを完成させて、法規にそった図面でなければならないのです。
誰も相談出来る人がいなかったので、これは大変難しかったです。

行き詰まった時に偶然インターネットで添削指導してくれる兵庫県のサイトを見つけました。
費用はたしか3万5千円くらいだったでしょうか?藁をもつかむ思いで連絡を取りました。

課題が送られてきて最初はじっくりと時間をかけて完成させ、送ると赤ペンで添削されて返ってきます。これが結構勉強になりました。

返ってくる間同じ問題の違うパターンを考えたりして、添削されて返ってきたコメントがその間に考えた違うパターンと一致していたりしたので、ひとつの課題からいくつものパターンを考える力を養ったのでした。

その甲斐あってなんと資格を取ることができたのです。がやはり国家試験は簡単ではありませんでした。

建築士をとってからは、住環境コーディネーターやキッチンスペシャリスト、耐震診士など必要だと思われる資格の所得をいろいろしました。実地では出来る内容の裏づけのためには必要だと思ったからです。

そうこうしているうちに数年が経ち、職人さんや仲間たちからの要望もあり行き当たりバッタリで、会社を起こすことになったのです。

問屋さんやメーカーの協力もあり何とか順調に立ち上げることが出来ました。

私としては会社を興す将来像は持っていなかったので、開業資金も100万円位しかないため、法的手続きもインターネットで調べて自分で登録。事務所の改装も集まった仲間たちがみんなが協力してを手伝ってくれてコストダウン。
無事立ち上がった事務所でささやかながらお披露目会を開いたことを今でも思い出します。

お金がなかったあの時代、すべてが手作りでのスタートでした。叩いても出るのはホコリだけ、でもお客様から頂いたお仕事は自分たちの責任の取れる限りお答えしてきました。

お客様に楽しんでもらい、私たちも一緒に楽しむ。職人さんたちも一緒に楽しんで良い仕事ができる環境を目指したい。

ですからバリバリとたくさん仕事をこなすよりも、じっくりと大事に作り上げるスタンスでいこう!そう思って何でも自分でやってきたら忙しくなっていました。

毎日毎日やることは尽きませんが、「日々是勉強」です。

頭でっかちにならないように、積極的に勉強会に参加して、(たまに飲み会にも参加して)、有益な情報をお客様にお届けできるように活動致しております。

「自分の出来る最大の範囲で、自分の出来る最大の責任において」これからもこの地域で頑張って参ります。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。

平成25年5月吉日
水と木工房株式会社HGプランニング 代表取締役 高良 匠